娘はHSC~親ができそうなことをやってみた~

長女はほぼ間違いなくHSC(とても敏感な子)。次女もおそらく。夫と私はHSPです。うちでの試行錯誤を書いていこうと思います。

『日本のいちばん長い日』読書メモ~ポツダム宣言受諾、玉音放送は当たり前にできたことではなかった

『日本のいちばん長い日 運命の八月十五日』 著者:半藤勝利

 

正確に言うと、Audibleですべて耳で聞きました。
全部で13時間ありましたが、家事のあいまや移動のあいまに2倍速ぐらいで聞いて、3日くらいで聞き終わりました。
本を手に持って読む余裕があまりないので、めちゃくちゃありがたいです。
 
これを聞いたのと、『昭和史 1926-1945』の該当部分を読んで、自分の中の整理としてメモを書いておきます。
 

終戦までの経緯

・日本政府は、ソ連の仲介による和平工作に励んでいた。
そのため、アメリカ・イギリス・中国の名でポツダム宣言(日本に無条件降伏を勧告する内容)が出されたときも、取り合わなかった(7月26日)。
 
ソ連からの返事を待っている間に広島に原爆が投下された。
さらに、その和平の仲介を依頼していたソ連が8月8日日本に宣戦布告、8月9日午前0時を過ぎたとたん、満州に侵攻してきた。
 
・鈴木内閣の「ソ連仲介による和平」という政策が間違いであったことが明白になり、内閣総辞職となるのが当然とみられたが、鈴木首相は、辞職を選ばず、とにかくこの内閣で終戦させるという決意をした。
 
ポツダム宣言の受諾を前提とし、条件を付するか議論している最中に長崎に原爆が落とされた(8月9日午前11時2分)。
 
ポツダム宣言に付する条件を1つ(天皇の国法上の地位を変更しないこと)とするか、4つ(武装解除、戦犯の処置などについても加える)とするかで外相と軍で意見が割れ、それぞれの賛成が3対3となり、内閣不一致となった。
 鈴木首相は、御前会議を開き、その場で、天皇のご判断をお願いしたいと申し出た。
 御前会議では天皇はふつう発言しないことになっているので、これは異例のこと。
 軍部は心中カンカンだったが、天皇の前では言えなかった。
 天皇も、異例だとは分かっていたが、鈴木首相との信頼関係から、終戦のためにということで、1条件でいいという旨の発言をした。
 
・8月10日朝、外務省は、「天皇のもつ大権が保護されることを了解してほしい、その条件の下でポツダム宣言を受けれ入れて降伏する」というような内容を連合国に伝えた。
 
・8月12日夜、連合国側からの回答があった。
内容としては、簡単に言うと
「日本の今後の政治のかたちは、日本国民が自由な意思によってに選ぶ。
 天皇及び日本国政府の国家統治の権限は…連合国最高司令官にsubject toするものとする。」
この「subject to」の訳し方をめぐって、外務省は「制限下におかれる」と訳したが、軍部は「隷属する」と訳し、そんなことは認められない、といきりたった。
 
・軍部は、天皇の地位が保証されるのか連合国に照会することを強く求めた。が、外務省は、「聞き直すことは、外交的には交渉の決裂を意味するのでできない」と突っぱねた。議論はおさまらず、このまま受諾するか否か閣議は一致しなかった。
 
・鈴木首相は、再度天皇陛下の判断を求めるしかないということになり、これも異例のことだが、天皇招集による御前会議が開かれた。
 
・ふたたび、天皇が「このまま受諾してよい」と判断し、至急に終戦に関する詔書を用意するよう命じた。
(「堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び」という言葉はこの時に出ている。
また、「私が国民に呼びかけるのがよければいつでもマイクの前に立つ」と話された。)
 
閣議詔書の内容について議論の上(詔書の字句をめぐってまた時間を費やしたが)、とにかく一致し、8月14日午後11時、ポツダム宣言受諾が連合国に伝えられた。
(連合国側では、日本時間の8月14日夜が「勝利の日」とされている)
 
・8月14日午後11時25分~11時50分 天皇宮内省終戦詔書を読み上げ、レコードに録音された(玉音盤)。録音は2回行われ、2回目のものが正盤、1回目のものが副盤とされた。
 玉音盤は翌日まで侍従が保管することになった。
 

クーデター計画

・陸軍内部では、8月10日政府がポツダム宣言受諾に向けて動き出したあたりから、クーデターの計画が進行していた。
「クーデターによって鈴木内閣を倒し、軍部による内閣を作る。終戦などもってのほか。徹底抗戦する。」
 
・8月13日夜の計画では、「8月14日朝7時、陸軍大臣参謀総長がクーデター計画を正式承認する。10時、クーデターを発動する」とされ、陸軍大臣参謀総長がその計画を受け取った。
 
・8月14日7時、陸軍大臣参謀総長が「計画には反対である」と述べ、クーデター計画はご破算になった。
 
・あきらめられない若手将校たちが14日午後から15日未明にかけて独自に計画を進めた。(畑中少佐、椎崎中佐が中心)
 

録音後、宮城事件、玉音放送

・8月15日午前0時、クーデター開始
 録音が終わり、宮城(皇居)から帰ろうとしていた情報局総裁と日本放送協会の録音技師らを拘束。玉音盤のありかを問い詰めるなどし、放送会館の捜索が行われた。
 
・8月15日午前1時~2時
 宮城を守る近衛師団長は、クーデターに加わることを求められたが、拒否したため、殺害された。
 殺害の事実を隠し、師団長名で、近衛師団に対し、宮城の占拠と玉音盤捜索命令を発信。近衛師団は、師団長の命令と思い、クーデターに加わった。
 
・8月15日午前4時~5時
 師団長の死亡が発覚。命令がニセであることが分かり、東部軍参謀長が宮城内の畑中少佐に電話で反乱中止を求めた。
 
・8月15日午前5時10分
 東部軍管区司令官が近衛師団司令部に到着。
 宮城占拠命令を撤回し、暴動を収拾。
 
・宮城周辺にまだ反乱分子がいるかもしれないということで、玉音盤は、副盤をうやうやしく放送会館へ運び、正盤は雑嚢に入れてカモフラージュした上、第一生命館にもうけられた予備スタジオへ運搬された。
 
・8月15日午前5時30分
 陸軍大臣官邸で阿南陸軍大臣が自刃。
 
・8月15日午前11時20分
 畑中少佐、椎崎中佐、宮城前広場で自決。
 
・8月15日正午
 ラジオを通じて玉音放送が流された。
 

感じたこと・疑問

ポツダム宣言の受諾は、当然のことではなかった。
 天皇と鈴木首相の「今やりとげなければ」という強い強い決意のもとで、ようやくたどり着いたものだった。
 
玉音放送も、当然のことではなかった。
 玉音放送のための録音も、クーデターと紙一重で行われており、玉音盤が放送局に保管されていれば、クーデター側に発見され、行うことができなかった可能性もあった。
 
終戦への動きがなぜこんなに慎重ににならざるを得なかったか…軍人のクーデターを恐れたからというのが一因。
クーデターが起き、軍人政権になってしまうと、一億玉砕に向けて突っ走ってしまう。それを天皇も首相もわかっていたため、強硬に終戦に持っていくこともできなかった。
軍部を暴発させないように、終戦に導いていくのを任されたのが陸海大臣。
陸軍大臣は、クーデターの計画を知っていた。それをコントロールするため、あえて計画をつぶさないでおいたのか?
天皇は、「陸海軍将兵はとくに動揺も大きく、陸海軍大臣は、その心持をなだめるのに、相当困難を感ずるであろうが、必要があれば、私はどこへでも出かけて親しく説きさとしてもよい。」とまで言って心配している。
 
天皇は、「私の任務は、祖先から受けついだ日本という国を子孫に伝えることである」「今となっては、一人でも多くの国民に生き残ってもらって、その人たちに将来ふたたび起ちあがってもらうほか道はない。」と発言した。
天皇は、いつから自分の任務をこのように考えていたのか。
 
・これに対し、軍は、自分たちの任務を「国体護持」と考えていた。
軍のこのミッションはいつできたものなのか。「国体」ってなんなのか。
 
・一部軍人にとって、一番大事なのは「国体」であり、「国体を守るためには、裕仁天皇という一天皇の間違った決断のために国体が脅かされることはまちがいであり、それは正されなくてはならない」とまで言っているような記述があったが、そのような考えはどういう風に出てきたのか。
 
・「狭い頭で考えても狭い結論しか出てこない。」と『日本のいちばん長い日』のどこかにあった。若い軍人たちがが軍人同士でしか意見交換できなかったことが悲しい。
 
アメリカでは、8月15日、日本の占領政策について、「3か月間アメリカが日本を統治した後、日本全体を4分割して米英中ソで分割統治し、東京も4分割して分割統治する」という案が成文化されていた。
 日本のポツダム宣言受諾を受けて、この案は実行に移されなかった。
 終戦の決定が遅くなったことで、原爆投下、ソ連の参戦、シベリア抑留などひどいことを招いた。が、もっとひどいことになっていた可能性もあった。
 
全然知らなかったことばかりでした。
学校でどうして教えられないんでしょうね。
引き続き「戦争について知る」やっていきたいと思います。
ではでは。